アクアマリン・マンa46 俺は一冊の本に感銘を受ける。”国民的チャージで国債を減らす方法”という書籍で電子本だけが出ていて一気に読み切った。これだけ膨らんだ国債に関して憂鬱になる前に手を打つことが可能という弁論に俺の心の杵つき餅が舞い上がる。突然、無重力状態になってしまう。餅は普通重たい。どんな小餅だって手ごたえがある、しかしそれも空想だと論じてあるのだ。祝う気持ちが餅に重力を与えていて小餅はほぼ無力だと論じている。俺の田舎の餅まきを思い出す。立ち家といっていた。家の棟上げが出来上がるその時、立ち家をして村民全員で祝うのだがこれに似た方式で国民からチャージする方法にぼったくりでは?と最初は思うが段々現実枠に自分がはめ込まれていき恐ろしくも愉快になっていった。その本では一日24時間だと思うから上手くいかないとそうあるのだ。一時間を寝るのを惜しみ作る。その一時間は一年で365時間。それを24で割る。すると日数プラス余りが出る。この余りこそが国民がチャージしないと追いつかない数字だと書いてある。しかしリアルの反対はルアリ。これはルーティンありと解釈すべきだろう。そんなに簡単な問題か?って誰もが思う。しかし現実の反対は実現とある。僕達は可能性をまだ捨ててはいけないようだ。余りは現実の社会でいう何に相当なのか?そこが俺にはさらっと暗算で出て来た。この方法でいけば無理せずに国民的チャージが現実路線に噛み合う予測が成り立つ。