サファイア・マンs214 末の赤児の首が据わるまではと、土日には家で夫に子守留守番をさせて、子供四人を引き連れて出掛ける姿もよく見られ、私は一定の時期の存在に幸運を貰うのです。確かに首が据わるっていうことは第一義に来ることで、それが叶うまでは家でゆっくり過ごさないといけない。子育ては子供中心に動かないといけない。そこで自分の我儘は通らず、しっかり留守番出来ると自信を持って胸を張る旦那にもイクメン精神の確保は十分だったなあって振り返るのです。私が自分の文学を根城に動くのに対して、彼は家にいる時には子供に愛を注いでくれたなあって。決して365日企業戦士みたいなことにはなっていなかったし、今正にしたためるという回想の時期を捉えられたことも嬉しい秋かなあって。宇部市は私の第二の故郷にもなるでしょう。あの煙突の煙を見た時に私の作歌意欲も永遠のものとなったことが重大なのです。なぜなら煙が絶えた時が作家生命の終わりを意味するからです。私はいつも遠くからそれを眺めていたのですがある日、これは自分の欠損になりはしまいか?と根元の見える位置まで見にいったことがある。こうして煙の元本を見たことで、もっと創作意欲は闊達になって、信頼出来るパートナーに煙突自体が変わっていく。このような街の象徴とも言える物体には何か得体の知れない起爆剤も宿っていると直感したのです。煙は自由自在で、誰かにその形に出るように命令されてはいない、するとこの関与のない姿勢こそが作家の元本にも相当が解ってくるのです。