デニム・ブルーママン17の17

 

父親は口を酸っぱくして諭すというのに容子にはそれは・・・きっと違うっていう認識の相違。そこを傍から見て、私は容子の直感を採ることにするのです。作家になった人だけが物事の真髄を見ることが出来るのか?っていうのは私にも疑問符はてな・・・が浮上していたし、心の中で沈殿があったことを否めなかったのです。私の父親が矛盾の海に飛び込んでいったところの真相は、この子が解いてくれるのでは?それを皆が真剣に聞き入る様相が見える・・・私は遥か年月の経過した日本をそのときに垣間見ていたのです。容子は恐らく・・・あの子は当初から疑問視される。しかしこの17歳のときの矛盾の空箱が良かったのだとすれば法外な思いにいざなわれるのです。ここに入って退屈凌ぎ。しょっちゅう、矛盾と対峙出来た環境にいました。そして計画的に書いた35歳から47歳の頃のことを身内以外に全く話さず、閉じ込めたことでも分かるのです。しかも、その12年もの間、あえて、大佐のことを調べない手法を選んだ。穿つ自分を閉じ込める意味かと存じます。ある日…私が死の床にある病院にお見舞いに来てくれて、私の父親の写真を見せるのです。すぐ涙は溢れてきた私・・・お母さんが封印したかった訳はわたしが解き明かすっていう伝言が聞こえてきました。50代を超えたあの子が着実に駒の紐を巻いている姿に母として恐ろしい子供を産んだんだなっていう驚愕でした。もう二度と、蒙昧を国民に与えてはならない・・・その使命を買って出るにはまだ、浅はかだったあの頃。17歳の頃、そして52歳の頃です。しかし写真一枚であたしは準備が万端に整ったことを知ったのです。疎外されどうしだった人生なら、なお信憑性がある。物事の核心を負の要素から抽出したのです。