エメラルド・ウーマン71

 

日本が平成から令和になるときに、容子はしっかりブログでアドバイスしていましたね。ここで西暦を取ったらどんなに国際力あふれる日本に変身出来ただろうか?確かに年号の美しさはある。令和で充分幸せっていう方々にも共通しているのは日本の立ち位置をまだ、しっかり認識してないっていう迂闊さにある。覚えておきたい。物事の節目には大チャンスが潜むということです。あのときは特にそれが言えた。突然の崩御ではなかったからです。私はこの点だけは容子を押します。次の時代のことをきちんと鑑みることが出来る用意。西暦1899年に私の母は生まれそれは明治22年。脇田大佐、容子の祖父が生まれたのは、だから、明治31年になる。私の母は終戦の三年前には、のぼり職人である夫を亡くしていますから、私の弟の出征すら見ないまま、あの世に逝ってしまい、そこから母はほぼ無一文での生活をどうにかこうにか切り盛りしていくのですから、たいした気骨の持ち主だったことは言えます。和裁の技術があっても注文が来ての自営。そこを考えると、私の母には商才があったのでしょう。次から次に仕立ての仕事が来て、それは容子が小学校へ入学する頃まで続いていたのです。それがなくなってもしばらくは和裁教室を自宅で開いていました。しかし、母は信心深く、貯金よりもお布施が大好きで私はそういうお金のやりくりなら、渡すのをよそうかな?って迷ったくらいです。なぜ、日本人はそういう生き方をするのか?充分教育を受けた私ですら、本当の金の使い道を知らなかった・・・という驚愕です。信心深いことはいいことですが、今はこう思います。容子にかつら屋さんが必要なのでは?っていう切なる思いです。鬘をかぶれば容子はたちまち20歳は若くなる。イオンにも置いて欲しいって。しかしお金もないし、自由時間もない容子。こんなときには行商人が助かりますね。ウィッグの店頭販売です。分割出来て、集金に給料日に来てくれるのなら、容子は迷わず購入するでしょう。昔はそういう点で良かった!!教職員室には出入りの靴屋がいて、月に一回放課後、売りに来ていた。私も分割払いで購入した記憶がある、口では金利がもったいなかったと、悔いてはみたものの、あれはあれで、助かった。まるでメリケン粉をバケツ一杯被ったみたいなアタマの容子が、不憫でならなくて、つい、書いてしまいました。