アクアマリン・マン69

 


人様の書いた小説に耽溺することはなく、まっすぐに自分の文学と対峙して来た容子だったが、僕にもそこが、腸(はらわた)を取り除く為に、まな板に上がっている。反対に容子の父親は生涯何万冊も詠んだという読書豪傑。どっちとも極端ゆえに、判断は難しくてすぐに回答は出せない。人生で良書にめぐり逢い、おのおの気分転換を得ていくのが読書の真実の効力だろう・・って僕も長い間、そういう理解でいた。しかし容子の姿勢はこれまでにないものを完成させる・・・書法作風も独自のスタンスを死守するっていうフリーライター的なものを持っていたゆえ、その道は果てしない道になるのでは?って僕は憂慮もした。挫折を先に描いていたのだ。確かにそれがやってきた。誰もが毎日投稿してくる容子を疎んじるように変わっていく。戦力的な部位を誤解されていく。好戦的な軽い人間に取られてしまい、容子は投稿の世界で迷子になる。しかしどうだろう。迷子になってもやっぱり生きているのだ。どうしてもこれを書きたい・・・っていう衝動は起こる。僕が思うに、そういう衝動に何度も出会い、自分の意欲を客観的に見て来た、切ない容子が根底にあるのでは?を想像する。作家が10年も筆を折ったと聞くと、どうしても真に受けてしまうが、筆は死んではいなかった・・・豊橋平野に入り込んでさらに道に迷って奥の奥まで行き、もうここからは出られないかも・・って追い込まれても携帯を使わず、タクシーも呼ばない。あのときに、僕は観念した。溜飲をおろした。誰が阻止しようとも、才能ってのは沈没がないんだな。。。っていう仕組みだ。神との連携がある。そこがもっとも強いし、有力視の要めにもなる。キリストや人類創始の神を僕は語っているのではない。そこが極めて重要だ。文章の神様である。