デニム・ブルーママン14の15

 肥溜めは田舎の代名詞で特にそれが顕著なのは広大な畑を持つ家。ロコちゃんの家がそうでした。容子はその肥溜めを二基、棒を使い肩に抱えたロコちゃんのお父さんと道ですれ違うとき、一瞬たじろいだと言います。しかしそれは野菜の肥料として当時欠かせないものだとおいおいわかってきて、逆に尊厳の眼差しに変わっていくのです。玄関までの距離が長くてバキュームカーのホースが足りず、ロコちゃんの家が旧家でしかも階段が長かったことで私にも類推が可能だったのです。自分でやるしかない。しかもそれが適宜に畑仕事にマッチングで当時のイクメンたちの生き様が手に取れる。普段は堅い仕事に就いて勤勉だった父としての姿が休日は肥溜めを担ぐ姿に早変わりで、こんなこと、今の若者が出来るかなあ?って私は難儀をまず思うのです。当時はまだ新聞紙で拭く家庭は大半で後に出てきたのがちり紙と呼ばれるものです。容子はあちこちに遊びに行き、生活実態をメモしているようで、それはそれは丹念に調べているようでそこまでしている姿には将来はルポライターかもな・・・はありました。真実がおくびにも出ないことはありえない場所こそがトイレだったのです。慎重に駒を進めないと、そういうことを私だけに話していることは確かめた程です。普通がどんな装備を指すのかまだ、てんでわからない。だから日本には未知数の発展の要素もあったのですね。片田舎で育成されてこのぞくぞくするような田舎道での遭遇が、知識本にはないスケッチを奇想天外にしていったのでしょう。

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