デニム・ブルーママン15の2

 車がない家に育成された容子は、特別な意識を車に対して抱いていました。いいな♬っていう処の高級感以外にあったと思います。しかし当時はまだ、車は田舎なら職業用も多くてお勤め人でもバスなど公共の乗り物利用で部活の試合や遠征でもそこまで車がなかったことで交流自体少なかったは言えます。中体連の試合で相手を初めて見る・・・こんなチームなんだよ?の情報は全くないのです。今はどんなチームなのか?一発で検索出来ますが、当時は組み合わせの段階で教師が、このチームは強いぞ?とかそこまで有名ではないとかアドバイス程度で終わるのがおちだったのです。強豪校がやはり去年の成績が資本になってそこから判別する教師が多くてみんなが出会い頭のような接点で対戦していく順路を摂っていたのです。この試合の行われる二ヶ月前・・・5月も若葉の季節。容子の顧問がいきなり変わるのです。とてもバレーボールに詳しいとは言えない顧問だったのですが、いきなり見に来て、このポジションは間違っている・・・ってセッターの位置にあった容子を三段目の右に下げるのです。ショックなんていうものでは表現が出来ない様相を聞き、私は静観します。替わりにセッターになったのは背の高い選手で、当時九人制ですからレシーブも得意だった技を先生は認めてくれたのかも?っていい方に捉える私に反して容子は先生を、恨むのです。なんていうわがまま?許せない。でも直接は言えなかったのです。反抗をスポーツの場で向けてしまえば、勉学もそうだったね?って性向を言われかねない。当時3年生のクラス担任は美しい体育教師になって気分も刷新していたからです。容子は忍耐を作動させてみんなとの輪を重んじたのです。