ちょうど三歳の容子が六十年が経過する頃、日本がどうなっているか?わたしはあの子が56歳まで生きましたからもはやあの子に期待などしないでこの世を去ってしまった。人生で、半世紀も生きて頭角を表せないのなら、諦めも肝心。あの子の父がそうだったように、気質は酷似していました。そこで諦めて流した涙もあったこと・・・本当のことです。最後に日見の病院に来てくれたときも、あの子の伯母にあたるマレも一緒でわたしは実は寝たふりをしていたんです。涙ももちろんうっすら出ていた。二人の子供が落ちこぼれになってその両親である私と夫に、あらぬ疑いを掛けられた容疑者扱いみたいな攻撃は、最後まであった。正しく冤罪だった。思い出すたび、哀しい気持ちになってしまうものの時代の趨勢がそうさせたのです。人間としてようやく存在が認められるようになったとすれば個人としての力量、そして体外的な絆が確約されて今ようやく立つ容子でしょう。その頃も、すでに、対人でのコミュニケーションは活発に論議されていました。協調性がないのでは?は時に容子にはトレードマークとして幼年時代から付きはしましたが、本人は全く気にしないのです。先生たちは、厳しい評価でも本人が至って笑顔なのですから私も看過しました。個人の力と拮抗するのが社会的優位にある組織であれば、それは、面白い構図、しかも大舞台を執筆するシェークスピアも今後、必須になってきますよね。