エメラルド・ウーマンの99でしっかり川柳に専念するとそう述べながらなぜ、里子は自分を再び57577に置いたのでしょう?この方向転換こそ、里子の本当の性癖を表しているとも言えるし、しぶとい程の帰還力を持つのかもしれなくて興味深いのです。常に私以外の人間の介在を許して来たその結果かもしれずオノレがいとおしいのです。川柳一本に出来なかった自分の多様性は我儘な性向も同時に包括しています。なぜなら短歌や狂歌の部門で当代随一という程の人物がこの国に現れていないことでも憂慮したのです。でんと据えて自分が狂歌を打開していかなければこの分野は訳も分からないまま理解されないまま衰退していくのではないのか?大きな分かれ目に立ってあえてこの道に戻って来たのです。詰まるところ救いは川柳に理解者が多いことで、八合目まで人々の視点は登り詰めていたのです。あとは頂上を目指すのみ。そこまで展望の開けた川柳はほとんど里子の手入れを必要とはしていず、ひとつの判断材料でもあったのです。バラエティを豊かに持てば持つ程に憂慮すべきは短命に終わる可能性をみずから打破していく覚悟。ここで問われるのは文学的にもっと生き永らえるそういった気質をみずからが創出しうるのか?に掛かっています。バリエーションを自分の中に豊富に持っていることは同時に戦略も必要なのです。