父親が相手で裁判された息子は少なく僕はその時のことをまだ鮮明に覚えている。僕が母親の介護をしている時。母はまだ、煙草を止められず、病院に入っても欲しがって僕は身を切る覚悟で母に禁煙を説く。僕自体、酒も煙草もだめで酒は雰囲気で口にすることはあっても、恥ずかしながら言う。煙草は僕の体が受け付けない。この裁判は父から取り下げて来た。どこから見ても僕の勝利だったのだが一抹の懺悔に似た気持ちは年々僕を牛耳るようになって行く。僕は母が入院している最中に、煙草を処分していて箱の底から預金通帳数札を見つける。父には何も報告はしない。やがて気がついた父の言い分は、自分が毎月渡した金から貯金しているから自分にも権利ある金だと言い張る。しかし僕はそんな父の甘さに鉄鎚を打つ。母の意思が最も大切だと直感し、すぐに母の了解を獲る。母は暫くは茫然として何も言わなかった。しかし僕は母にタイムリーな介護宣言をするのだ。お母さんのことは一生を掛けて面倒みる!!って。母は暫く時間を置いて僕に笑顔で、あんたに任せるよって答える。僕は父の闘争のすべてを知っている。この案件以外にも父には浅はかといえる思い込みが多くて僕は正しく、父とは一線を画してと言いたいところだが、最後まで、父の脛をかじり続けた。僕はやがて父の面倒も看ることになる。父の年金を残すために僕は奔走した。父をなるべく自分の力で看護して年金を貯蓄にあてる努力に転嫁する。母が亡くなって三年後に父も逝く。僕は親孝行というよりもマザ孝行の息子だった。