サファイア・マン《緻密な男編》〔47〕父がオチコボレになった自分の子供達にどういう思いを抱いていたかは、ご承知の通りです。不甲斐無い気持ち、忸怩たる思い、その両方ですが、でも父の選挙に出るという時の政策にそういうオチコボレに対する配慮、愛情、全く持ってなかったことはみんな、意外に思うかもしれない。教育一家の理想の根本にあるものは文武両道で一度も偏ることはない!!そう断言出来なかったこともあるけど、教育1本!!ここは変わりません。キャロルが足が遅くて地元の競技会リレーでビリになっても父は娘には頭があるから大丈夫!ってそう思い直しただろうし、教育一家は無理をしません。よんどころの事情ない限り、すくすく順当に上に行けたらいいのです。文武両道でなくとも、その核心にあるものは、義務教育の間に知識をきちんとムラなく学び終えたのか?という観点。キャロルが、父の政策にあまり興味を持たなかった理由にも相当しますが意外にも父が亡くなって、すべてのことが成就を見るのです。まずこの国に派生する宗教同士の繋がりや観点、これは明解になりました。父が南無阿弥陀仏の六文字によって本当に救われたのか?という大疑問ですが、これはすんなり解けます。父はこの六文字を自分に描きながら黄泉の国に逝ったことは明らかなのかなあ・・・それが彼の本の核心にも繋がるのです。