いじめって誰を基本にして考えるかで全然違った図式になるし落ちこぼれって、一把ひとからげにしたとしてもおのおの、様々な事情ってのが根底にあるんだ。しかし落ちこぼれだって、人生の途中、多々チャンスがあって、もしもそのチャンスを有効に活用出来ていれば、のし上がってた可能性だってなきにしもあらず。だから落ちこぼれを過去にするのは簡単なんだ。負の要素に食い付いていたのは自分だったっていうお粗末さだが、そのまま未使用にして捨てるのももったいないんだ。落ちこぼれが味わった苦難は子育て中の母親、父親の苦渋そのもの。ほぼ教育期間中の小、中、高校在学中に起こるからだ。子育ては確かにしんどいものだが、発想次第ではユメのプロジェクターだとキャロルは試算する。この教育期間が公立高校無償化などの効果もあって高校課程が義務教育化する前の今こそがひとつのフシメなんだ。落ちこぼれに認定されても、なぜ、逞しく生きたのか??ここなんだ。みんなは、通常通り行った方が断然有利なのに?って他ならぬキャロルも思ってた。しかしここへ来て、もしも落ちこぼれになってなかったなら、こうまで、しゃかりきになって、文章書いてきたかな?って自分に問い掛けた。答えはノーだよ。しゃかり気を産んだのが落ちこぼれという処遇だったとすればこういうビッグチャンスってのはないんだよね。正しく神が与えたチャンス。これをゴッドチャンシングと命名しとこう。