エメラルド・ウーマン45

 私が誕生石のエメラルドでその宝石箱に入っていることは知っています。しかし私はいつも指輪を付けていた。それは自分で購入したオパールだったことは明かしておきましょう。最初の結婚で死産した私は結婚がこりごりになり、凡そ二十年以上は自分の母の元で暮らすことを選びます。母に蓄えを持たせ、出来るだけ、支えてあげることで自分の人生に、花丸をつけようとしたのです。しかし49歳になって再び旧家に嫁ぐことになってそれが容子が中学二年生のときでしたから、教師として後ろ髪をひかれるようななんとも説明のつかない不安に襲われたことは言っておきたいのです。弟の凝り性もあったのです。こう思ったら後には引かない。私も容子は、秀才タイプではないかも?って疑いはあったので、女子校でも充分いいのに?は点灯していた。しかし弟は思い込んだら引かない。いい面でもあり、実は悪い面でもあったのです。勉強に縛られて一息もつかない環境はあの子には似合わず、公立高校に間違って合格すれば悲劇が待ち受けているのでは?の思いがひしひしとあったことが私の未来として立ち塞がっていたのです。もうひとりいた容子のいとこの女子が女子校に行ったこともあり、私はそういうコースでも充分いいって方向性を太くとっていたのに反して弟はかなり頑固だったのです。小さいときの容子が俊英だったのはわかりますが、中2の容子はかなりスポーツ一辺倒に変遷を重ねています。出来れば保母の免許を取らせて幼稚園の先生になれたらな?が私に点灯していた。この職業がやはり一番容子に合った未来として横たわっていたのです。私ならスポーツに挫折するまで放置しておく容子の母の姿勢を取りません。しかし環境面は傍で見ているしか、やはり、なかった。方法がなかったのです。私のオパールの指輪をいつも容子は見ながら、ココロに輝きを貰っていたのだとすれば効果はあったのですね。その光は素晴らしいものです。いくつもの色彩を含有していて私もずっと気に入って指にはめていたのです。