撮・り・ま・く・るという言葉五文字が写真に憑かれた容子の日常茶飯事になっていますがそこまで、写真を撮るのは狙いがあるからなのか?私はそういうことより、もっと、自然の風景を写真に撮ることのほうが大事で優先なのでは?と思ってしまいます。商品には全部息吹はあるし、そこまで、私が、がみがみ言うことでもないですが、しっかり勉学にいそしむ姿を私は見たい。秋を捉えて欲しいがある。自然詠の本質とは自分の思いが四季の折々の中で昇華する様を体現するものです。しかし容子の撮影を見ていると、なるほど、家族も注意を促すのはよくわかります。なんでもかんでも撮りまくる。捲るが必ず付くのです。落ち着かないったらありゃしないわ・・・誰もあんたの写真なんか見てないしって家族に注意されても、絶対に言い付けを守らない。まるで、五歳児の衝動です。いい写真というのは一瞬を捉えたときに生まれると思う方です。稲の花が開いているその数分をシャッターチャンスを逃さずに写す。写すと映すの違いがそのときに生まれてくる。絶好の機会を逃さないということは写真にとっても余命になります。いっぱい撮影しておけば、漏らした・・が起こらないっていう安全志向が容子の中にあるのかもしれない。私は無駄を一切、好みません。たった一枚の奇跡の映像にみんなの心が行くからです。何枚もあれば、逆に心が分散し散らばってしまう。皆からも注意を促したくなる場面になっていますね。