デニム・ブルーママン14の6

 秋にお嫁に行って伯母がいなくなった下の仏間は静かでした。ヨッキちゃんもいませんから、タヤには自由に声を掛けてもいいはずですが、容子はあえてしなかったようです。まさか、高校一年の三学期の春に転校を薦められて私立高校に移動することなどまだ、中2のそのときにはわかってません。タヤは常に一番でなければ気がすまないっていう学力上昇思考の人物ではありませんが、極めて物事の深淵に拘る気質を持っていました。信心が深いのです。徹底的に本来なら容子の無頼派気質を直したいは奥底に抱えてはいても、そこで億劫な気持ちになって引きこもる。とても歯が立たない嫁だからです。この強さは偽りのもの・・・誰にもそこがわかっていながら鬼嫁の私を矯正させることは、無理だった。十五歳くらいまでで他者との関連性や教育的な価値をわからせていないといけないのです。私にはそこが理解出来ていたからこそ、我(が)を通せたのです。容子に関しては、大きく幅を持たせて私が捉えてみたかったのも、暇さえあれば作曲をやっていたからで、音符に書くまでもなくそれはジャズアドリブのフレーズのように瞬時に湧いては消えるフレーズでそのつど、耳に新しかったのです。本人は歌謡曲の大ファンで小学校の時代から様々な音楽を耳に入れていたことが良かったのでしょう。歌謡曲とはいっても日本は幅がある。さよならはダンスの後にはかなり気に入って何度もテレビを見て感得していました。異色の楽曲を耳にしたときなど嗚咽を漏らす・・・日本って演歌もあるし、童謡も優れているし、ロックも素晴らしいって。どれも好きだから、迷うわ・・って話す。青い麦を購入に行ったのも確か中3になってすぐの頃・・・伊丹幸雄さんが歌う青春もの、初恋の歌でした。ヒガナガにレコード店がその頃あったのです。

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