私は心配が失せたあとの、妙味に気が付き、実は、腹が茶沸かすくらいの御託で頭の中は一杯になっていた。まず、この痛い訪問は、我が娘がそれ程、歓迎されてはいなかった…という事実が立ち上がる。しかも、相手のお子さんも、おばあちゃんも、全く容子に気を遣う場面が出ては来ない。この時の容子は、取材というものの本質を子供なりに掴んでいる。全体の感じを心底で感じ取っている。相手が歓待より、むしろ、歓待なしの方が見える。すべての描写を可能にしていくのは無視の領域です。おばあちゃんは中々言わない。肩たたきはもういいから、友達と遊んでおいでよ、部屋に上げたら?ここが聞こえては来ない。そのお子さんも、心を込めて肩たたきを続行している。容子は口が裂けても言えません。あたし遊びに来てるのよ?それを言うことは出来かねた容子の苦悩を想像して、なんと、私には、笑いもこみ上げてくる。母としてあえて何も言わない。あの子は歓待なしの、もの凄い効能を肌で感じ取る機会を掴んでいたからです。