考えてみるとあの頃・・・何も通信手段がない。相手とすれ違うとき、ニコっと挨拶する位はしてた私ですが、立ち止まって長話したりはなかった。するとどうしても子供同士も疎遠になることってあったかも・・・容子は誰とでもじゃれ合いたい人なつっこい性質。相手から呼ばれればすっ飛んで行く、しかしこの誰とでも・・・っていう心の開き方を、私が忌み嫌ったと言えるでしょう。みんな生まれた時から平等・・・?大きな疑問符でした。そんなことがまかり通る訳ないのに、平等と教師は教えないといけません。せめて、家庭の中だけでもきちんと・・・っていう切なる思いあった。しかしうち解けにくい教師と、ワガママで奔放な子供のイメージが、アパート内で着々と構築されて、それはコミュニティで容子が誰かに声を掛けようとしても、中々一緒に遊ばなかったりと、極めて顕著な形で相手からやんわり断りを受けることはあったのです。しかしわれ関せずえんの態度を通す。私には折れないプライドがあった。どうしても負けられない?自分の中での鬩ぎだった。日本は戦争には負けたけど、これからはきっと違うんだ…新しい日本の幕開けなんだ・・・って。世の中は私の思いを投影していました。多くの考え方が日本には毎日生まれている!!っていっても過言ではないくらい、かまびすしい言論の時代が到来していたのです。