アクアマリン・マン164

 沢山の部門を持っている・・・ということは見る側にとっては嬉しい悲鳴。しかしその見る側にさえ、疑問が湧くことがあって、相手に対する脅威と落胆である。僕がそうだった。頭が冴えてすぐにも対処出来る気配りの出来る容子、もう片方ではまったく僕の言うことなど、頭の片隅にすら入れない創作時間にある容子。どっちも彼女ではある。だからこそ掴み所がなかった。しかしここへ来て、ようやく掴めてきた。皆も僕と同位に悩んだだろう。男のような部位、そして女のような部位。しかし極め付けはやはり、どっちも容子だということで、絶えず推し計らないといけない。すぐ判別しないと容子にはついてけないってことになってしまう。苦境に陥らない為にどうすればいい?自分を持っていれば難儀ではないと思う。僕がかなり自分を持っている、そういう拘り型だった。人が入り込めないセオリーがあった。それなのに全くそれらが効力を奏してなかった。しかし全部容子が吸収したのだとすれば?そうやってもしも・・・今があるのなら万歳三唱出来るだろう。僕の言うことすべてを、自分のものにしたのなら、経済論も語れる!!インターネットがどんなに進んでも、金融理論まで豹変したりはないからだ。世の中は誤解と陰謀で満ち溢れている。パソコンがいじれないならダメとか、すまほが出来ないからダメとか。金融とはそんな中途半端でやわなものじゃない。やわの反意語、わや。京都弁で全部ダメにしてしまうこと。そうはならない為に今がある。日本の金融をみんなの力を結集させ、死守していくことがこれからは重要になっている。