デニム・ブルー・サファイアママン2の18

 私の心配はずっともっと先の認識にまで及び、事実夫の実家を毛嫌いしていたことは言えます。前の奥さんの子供が亡くなった時期、この義姉も嫁いだ先で子供を亡くしていたことです。同じ時期に二人も・・・なんか呪いを禁じ得ない。そして容子が病弱だったこともそれに尾を引く。病もなく極めて健康なのなら幾分感じも変わったでしょう。私にはこの子を大きくしていく絶対義務があったのです。途中で何かがあったらそれは、ごめんなさいでは済まない。自分は自己責任をこの子と連盟で背負っていたし、夫も同じく。幾ら信頼する人でも預かるって言われてもそれはノーだった。しかし全くの知らない人の家、民家に容子を預けている・・・という矛盾も自分で悟っていた。なぜかな?ってそこをも分析し極める。不可解な環境でした。何もかも戦後、変わってしまったことによる私の子育て凱旋だったのかもしれません。日本でありながらもはや日本ではない。負けたけど戦争に確かに負けたんだけど、活力が残っていた。子供にかける気概のようなもの、理屈でこれだ・・・っていうことが不可能なくらいの資力。戦争に負けたからこそ、培った理性と自力。真摯な気持ちも同時にあったのです。あのような戦争を二度とは起こさない利発でしかも優しい心を持つ優秀こども。まだ、手応えとしては未達でしたが育成任命権が私にあったことが安堵に繋がっていたのです。