デニム・ブルー・サファイアママン2の6

 今にして思うとなんて器用だったんだろうって。家のこともやってお腹が大きくなるにつれて息が苦しくなっても体育の授業をこなし、生徒たちと一緒に行動をともにする。あるときはオルガンを弾き子供たちに合唱させ、家に帰るために電車に揺られる。なんでこうもタフだったのか?それは若いから?それとも結婚したことで一応の人生の設計図が出来たことによる安堵?みんなが希望に溢れていたのです。一攫千金も巷で生まれたでしょうし、戦後のどさくさに紛れて商売人の中からトップへ躍り出た社長もいた。しかし教職員の夢はやはりこの国が良くなることです。周囲の国からも信頼を得てますます友好を深めていく。企業も盛んに特許を取る時代になっていました。押しも押されぬ日本の幕開け。翌翌月には生まれるというとき、私は産休を取って身の周りを整えました。当時は出産したあと子供の面倒を普通の家で預かってくれるそういう計らいがあったのです。お金を自分たちで支払い赤ちゃんの面倒を見て頂く。親友の紹介で私は西浦上駅の線路を渡ってしばらく歩いた民家に子供を預ける契約を結ぶのです。共働きの家庭が当時も結構あった。慣れた方が看てくださる。夫もそれに賛成してくれたのです。お互いが教職に夢を持って夫は本来なら小学校教諭でしたが学制改革で中学校社会科の教諭になっていたのです。