日本語には同じ意味を持つ似たようなツインはあって符合論を解明する僕らの懐中電灯の役割していると思いませんか?例えば?鬼の首を獲ったみたいにと言う時、もうひとつ日本特有のものがありますね?親の敵を獲った?はい、そうです。日本が昔からそういう先祖の因縁に関しては首を突っ込む民族でしかしそこに漂う情けに人々は涙を誘われるのでは?わたしも同感よ、もしも親に対する思いが希薄なら人生そのものも薄まっていく・・・。ドライであってはいけないんですか?難しいけど他人と身内はそもそも違ってないとおかしい。全くの他人を引き寄せることが政治の主導力ではないでしょうか?私もそこを禁じえない・・・。マレさん、僕たちだけはそういった回りくどい言い方しないってつい、この間言ったばかりでしょ?いいや、こうやって常套的に出る言葉にも実は仕組みや綾がある・・・。ど、どういうことですか?例えば日本語をずっと研究していると結果を暫くは明るみにしたくない時とか、隠れ蓑が必要な時など、様々対処療法として使用されたり適用される言葉としての宿命があると思う。言葉が自分で持つ宿命?そういうのを逆に公明正大にしていく力を川柳は役割として持っている。それは嬉しい使命ですね?じゃあお願いね。出かしたぞ!! 坂下咲かした アルツーベ