七人が同じ人物でありながら全員にきちんとした誕生日が与えられていて、それが各章の大成を暗示している。誕生日があればそれぞれ享年もあるはずだ。意味合いが気持ち気になってさらに掘ってみる。なぜ、おのおのにバースデイを設ける必要があったのか?作者の意図が内在するはずだ。僕は西暦1985年、七月某日が誕生日、ちょうど出光佐三が誕生した百年後に設定されている。僕としては異議はなく逆にプレッシャーを背負う。なぜだろう。こんな素晴らしい年に僕を設定してくれたのは嬉しいことだが、比較されてしまうというリスクもあって、ただならぬ様相だ。しかし転換着地してみると厚遇を禁じえない。僕は経営者ではないからだ。経営する側には見えないリスクが絶えず潜在し、危機の姿がなくとも煽られたりがある。せせこましいニューズ配信者が少しでも疑義があれば書き立てるからだ。しかし僕のことをしたためる記者はこの国にはいない。それが最高環境になって僕を自由闊達にする。☆ありがとう☆と放つ以前の快挙に打ち震える。僕はそれぞれの誕生日を調べてみる。そして作者がすべてのジェネレーションを巻き込むべく奮闘を決意しているという、おおらかな意図を探り当てる。ひとつの世代を把握するのみでは道筋は開けない。十代以前、十代、二十代、そして三十代.....と全世代をオーバープランニングしながら組み込んでいく大がかりなストーリー力が頼もしい。