俺と大リーグを観戦するときに、必ずメモ持参かと思いきや、キャロルはそれを全くしなくなった。メモにあえて採らないことで、記憶力の増進を図るということなのだろうか、俺は必ずこれは大事だ!と思うとあいつの前でもメモを取る。そしてそのメモ用紙も新聞のちらし、最近は裏が白いっていうのも少なくなり、カレンダーなどが候補だ。白い紙など捨てたことがない。メモ用紙にして、自分の生活上で、気が付いたことをメモする。毎回同じことに気が付くときにはキャロルに話す。あいつも俺が題材になることを自然に知っていくのだ。考えてみると、シゲール論は生活詠に酷似かもしれない。あいつもとんでもなく大量の生活詠を詠みしたためたが、それに相当するのが俺のシゲール論。そしてこの生活者の訴えのようなものはいつか庶民のみならず、高額年俸者までをも救うものだと考える。同じ民族だから?そうではない、人間すべて平等に競争出来る素地のあるニッポンが優れる証しである。デルスカイしておこう~競争着地である。〔走り幅跳び選手に凄いのが現れれば、それを二人で計らないといけない、つまり雇用生まれる〕