頭の中で考えたことをキャロルはスムースに外に出すことによって生き甲斐を見出すし、それが自分本来の仕事。モノカキだからだ。そういうシビアブローな自身を体得出来たことが嬉しいのだ。もちろん中々出てはこない語句もある。どういう表現をすれば実を結ぶのか、大衆認知海域まで漕ぎ着けるのか?そういう自分の切ない思いが通じるときがある。実は作品も情報の一部なのだ。人々が何気なく吐いた言葉も、何気なく呟いた言葉も、俳句や短歌類も同位にあるとみなされる。そしてその他者の言葉によって、自分の言葉も端的にいえば行き先を得ていたり、満足の鞘に収まったり思いがけない厚遇を得たりと各人にそれぞれの成就があるのだ。そこが情報伝達のメリットだとキャロルは思う。誰も自分の存在すら知らないから哀しいと思う必要はなく、みんなが同じ立場にいることが幸いなのだ。もしも情報を司るはずのメディアが間違いを起こしても市井のみんながそれぞれの分析で叱ったり或いはフォローしたりオチョくったり(揶揄)が当たり前になった。物を言えるそういった相互間自由こそが民主主義の土壌と成熟でその反対にあるのが絶対政治だろう。ニッポンには列記とした芽生えがある。そういった自由を各人が育みもっと大きな輪にするチカラが温存、将来が楽しみな稀有なる民族である。今朝はその喜びを団子に表してみた。ショットハイいきまひょか~自由気まま 十六団子を 迎えたり〔実は庶民が幸せでいられるのは責任がないからで視点を変えれば頭がいいのだ、ママが掛かる〕