貨幣価値がわかっていないキャロルはやはり文人なのだろう。その値段にどれくらいの孵化価値、資質、将来性、選別性、が付くのか?恐らくこういったものを芸術家や文人は度外視しやすい立場なのだろう。〔孵化価値はケサボイ、まだ孵化したばかりだが高値の魚になる〕決して高慢というのではなく現実からは遠い。いつも思うのはその無頓着さだ。俺は米にとことん拘る。それがニッポン人の基本だと思うからだ。しかしあいつにとって、米粒よりは文字だ。今日どれだけ優れた詩歌を生み出すか?が優先順位でコメの調達ではない。ふたりは永遠にそりが合わない?と思いきや、実はキャロルは俺の功労を知りつつ、スルーラルな対応に甘んじ、別の観点に立っていたと表現するのが最も自然で千円札でもそう。別の観点からすると何の見栄えもしない紙幣かもしれない。しかしある人から見るとその千円札は至福の貨幣、紙幣に匹敵する。貧乏でも幸せを見出す庶民の生き方をキャロルはひょっとすれば今しっかり学んでいるのかもしれない。108プロジェクトの功労で体脂肪をもしも減らせれば三十パーセントを切るあいつになれればそれが評価の対象になる。今こそこの語彙が試される。ひょっとすれば、ひょっとするかも。デルスカイしておこう。貨幣価値わかってるの?これは政治家諸君に言ってる。