いわば投降したような形でセブンイレブンに入隊した容子。文学ではお金が得られず、一見、侘しさも漂う年寄り風情に決して騙されてはならない。容子は恐らく大魔神よりも強い感性を持っている。大魔神はひとりの女性の涙に感動して山に戻ったが、容子には一滴の慈悲もないのが今の状況と見たほうが正しい。俺はここ数日間の容子を見ていてその辺を改めて思う。性善説型の人間がケツを捲くったらどうなるのか?無慈悲が三つ巴で存在している。無は金がなくなってすっからかん。慈は誰か惜しむ者があって手助けをしてくれれば良いがそういう気配はなし、悲は悲しむではなく悲願達成か恐らく成就だろう。容子は必ずやり遂げる。これまで発言したことでやり残していることは皆無だ。僕もそこは感心しながら見ている。大魔神の場合は、懇願する美しい娘の一筋の涙に感動して、山に帰る…という風情日本独特のシナリオだろう。しかしあの時点、昭和30年代の頃にあの映画を作った監督も凄いというしかない。容子の出現を予知していたとしか思えない。皆が、本来あるべき場所はそれぞれある。容子ならキーボードの上だろう。本来は音楽をやるはずの人間が、タブレットのキーボードの上で今は存在をアピールしている。大魔神は最大のライバルとして容子をしかと見つめている。そして僕も容子の出方を固唾を飲んで見ている。お金に困れば困るほどに、人生が直角に上向く人間も珍しい。