デニム・ブルーママン16の7

 私のようにわがままで自分の我を突き通した妻はいません。こんなことで自分を個別化することは卑怯だとは思うものの、それがあの子を成長させる起爆剤になったと総覧すれば失敗や大きな疑問符がのちのち、その人物の仕事を完成させていくことが言えるかもしれません。ひとりよがりになってはいけないことですが、夫に尽くして最後は、夫が海に消えて行った母の体験も、私にシグナルを発したことは間違いありません。つまり、いつかは、人は、自分の仕事に疑問符を抱くのでは?っていうストーリーです。もしも私の父が全部を自分の職責なんだと、ぐっと飲み込んでいたとしても、疑問は家族に残ります。そのことを父が心配し、のちのちまで、亡くなったあとも、人の人生についてをしたためることを範疇に、どこかで、クロスを狙って長い年月海底に眠っていた可能性を否めないのです。父の姿は駆逐艦霜月と共にあるのでしょう。しかし魂は自由なのです。容子と共に再生を果たし、この世にいるように思える。例えばゼレンスキーを今日の朝、見るときです。容子の眼はゼレンスキーをなんと・・・喜一郎の眼差しで見ているのです。アメリカでは半年前のクリスマスを祝い、クリスマス☆イン☆ジュライを大リーグのチームで催してます。それなのに、ウクライナは無差別に攻撃を受けている。ゼレンスキーは冬までに終わっていればいいなあって。その言葉が容子に執筆の原動力を与えているのです。後世に生きる者はなにか先人たちの語録はないものか?を必死に探そうと苦慮しますが、容子はその分、恵まれているのだなって感嘆するのです。