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 僕が思うのはもしも、僕が記述家として居なくなった時、誰が節約について、貧乏について語るのだろう?っていうひっ迫感だ。パートナーである義兄はもういない。じゃあ清貧路線を誰が引き継ぐことが出来る?僕はとても不安でマイナーな気持ちに陥る。日本のこれからを思う時、清貧の思想は必須と言えるのにそれをしっかりと掌握出来る書き手がいなくなること、実に不本意だ。姉にそういうのが書けるとは到底思えない。なぜなら本当に生活に困窮している生活者の悩みを姉は知らないからだ。確かに夫からお金を少ししか貰えず、いつも貧乏に喘いでいた姉。それを僕も傍から見てきた。思い出してみても姉がたっぷりと余分に義兄から貰っていたという記憶はない。しかしそれは姉に原因があるのでは?って僕は類推する。お金の使い方が浪費に近いから誰も多めに渡さない。本人は困窮しているとは言うものの周囲の処遇は正しいのだ。僕も貧乏になって五百円に救われる。ずっと貯蓄していたことで今を何とか生きていられる。こんなちっぽけな五百円玉が将来の僕のすべてを支えるはずはない!!って高を括っていた時もあった。この貯金箱が僕の晩年を支えるなど想定外であった。みんなも五百円玉は貯蓄していると思う。五百円でも令和二年発行の奴は別の入れ物に入れて観賞用にしている。取り出して光沢を確かめる。新硬貨はいつ見ても手に取っても素晴らしいのだ。