ルビー・ウーマンr279 私には実家を頼りたくない気持ちは強固にあって、弟が家でニートをしていたこともあり、そういう家に帰ってそこからパートに行くことは考えたくはなかった。本来なら母に預けてその近い場所で働き子供を受け取って家に帰るという生活設計も出来たはず。しかし母をどう位置付けていたか、今の弟を見ていても理解出来る。私はやはり、母に預けずに良かったのです。その後に、四か月だけ母に預けるということが私の三十歳の時に生じますが、これを見ても母が子育てに向いてないということははっきりします。本当に几帳面過ぎてダメなのです。泥足で遊ぶこともさせきれず、どんな暮らしをしていたのか?と思うくらい母はお嬢様だったのです。確かにじゃじゃ馬ではなかった証明に私の表情ひとつを捉えてキャッキャ笑うのです。笑いジョウゴの女性だったと言えます。私はいつも母に毛抜きを持って追い駆けられていた。この記憶が鮮明過ぎる。キチっとしていなければいけない母にとって一本の鼻毛さえ、許し難い存在だったのはわかります。脇田家の教育、特に子女教育はきっとはんぱないものだったんでしょう。私は幼少期、母からそういう厳しい特訓を受けて育ったゆえ、初めての子供、ましてや女の子を預けることを憂慮したとも言えます。しかしお金をせびることはもっと下の下だったと回想します。