サファイア・マンs205 こうして回想しながらすべてのことが徐々に思い出す事が出来てしかもディティールまでは行かなくても短歌をいかに立脚していったか、その手掛かりが分かってきて私の心も闊達となります。写実主義をとりつつ、私の構想が時代も同時網羅出来ればな?との願いで、一母親の心根の部位まで及べるような作風へと思いはするもののその頃はまだ初期も初期で、動く余地もあったのです。自然を詠みその中にある自分を詠う。それが短歌の中では最も多くの人が執った位置で、生活詠も日常詠もその中に含まれていました。私はそこを躊躇したのです。作風は最初から他の人々とどこか違う一線を保つべきを固持したのです。いい時がすでに私に啓示を与えに来ていたのです。入院が終わると迎えに来てくれる旦那が乗用車を同僚に借りて高速を走って来ます。まずこの様相こそが日常とは全く違う背景。退院の前に沐浴し、十分な母乳を与えられ、赤ちゃんはすやすや眠っています。この赤ちゃんが福岡から宇部まで一回も起きず、眠ったままで、心がお釈迦様になってしまうのです。途中パーキングに寄って風に吹かれても、私の腕の中で眠っていて動かないのです。よっぽど気持ちがいいんだな!!って旦那も目を丸丸させて横から微笑む。私はヒントを貰うのです。言動となる言葉こそが今までの短歌で足りなかった部位では?と。