yd1147

 僕は驚く・・・。本田宗一郎の伝記を読みながら生年月日を逆算。彼は終戦のとき四十歳。そして出光佐三は還暦。ここに二十歳の差がある。僕は出光佐三が生まれて、百年してこの世に誕生した。本田宗一郎は?っというと1906年生まれ。確かに終戦時は四十歳迎える直前。ふたりの間にはおよそ二十歳の差があることが判明するが、しかし、佐三の方が十年長く生きている。本田宗一郎は1991年に逝去して出光佐三は1981年にこの世を去っている。十年以上も長く生きた佐三の年齢は?っというと96歳だ。ここまで生きられれば本望といえる。僕の言う三十五歳確定論が悠々自適になれる。三十五歳から三十年後の65歳を一応達成の目標にしている、ここまでに自分が何者なのか?判明すれば御の字。そしてその三十年後、95歳で何かを成し遂げられれば人生は待ったなしで開花出来ている。三十五歳でまだ、何も分かってない人も、焦る必要は全くないと思うし、今正に、課長級の昇進目前なら、ひとつのスキームになるだろう。基準通りではなく自分の方が出世スピードが速い場合ももちろんあっていい。僕は自分に誇りを持って進んでいる。出光佐三が生まれて百年経過して僕がこの世に生を受けたこと・・・。あとは九十五歳まで生きられれば、ほぼ達成もスムーズに可能だろう。今の自分が三十年後、どうしているか?はっきりと己の道を歩んでいるのならよしとしようか。

ss406

 このまま行けばスノーサファイアは409編で終了だ。名残惜しい気持ちもある。僕はみんなの前に現れることで存在を確かめていられたがそれがないとすれば、この先、考えないといけない。以前ならすぐに浮かんだ代替案。しかし二年後、六十歳になろうか?っていう僕にまだ猶予はある!!っていう言うプラス志向の気持ちには嘘はない。ただ単に負け犬のまま、終わるほど僕は弱くはないはず・・・。しかし今はもう両親もそして義兄もいなくなって一番の理解者であった伯母もこの世にはいない。伯母は口がウマかった。姉のいない場所で僕のことを特別に褒めてくれる。信じられないかもしれないが、本当に引率が上手だった。魂の引率だ。しょうちゃんにはお姉さんにはない、しっかりした誠がある。それは叩きあげにこれからなりなさい!!ってことじゃないんだよ?って。じゃあどういう意味?って僕は思った。向こうはしたたかだ。叩きあげっていうのは苦労の現場に生まれた人々には、生まれた時から自然に身についている習慣のように強固なもの・・・そんなものはあんた達にはない。でわ、どういう生き方??僕は伯母に詰め寄る。知りたい気持ちをなすり付ける。伯母は明言した。生まれが厳しければ厳しいほど、生まれつき身についているものがあるけど、あんたたち姉弟にはそれがない。だからこれからそれを必死になって身に付けるしかないって。僕にはそれが何なのか、まだ探し当ててはいない。

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 マレさんに確認したいことがあったんですがいいですか?オパールママンの順番が以前とは変わったんですね?ええ、それは言っておかないと。十月一日から開始のサファイア・ママンを最後に持ってきたいって。それで、英字版オパール・ママンを四番目に替えたんですね。サファイア・ママンはあたしの母親の伝記。三姉妹のまんなかで、一番女性らしさに事欠く母が教師になって、散々あたしの子育てで苦労したことを書けたらなあって。お母さんは子育てに一生懸命だったんですね?最初はね・・・だけどあたしの子育てで、かなり苦しむ。言うことを守らない子供だった・・・。なぜ、お母さんの言うことをしっかりと守れなかったんですか?分からない。反発とかではないのよね。自分の気が向くままっていう性格は子供の頃からだった。みんなと合わせていくことは難しかった?合わせないといけないのが集団生活だとは理解してたけど、実際、窮屈過ぎて・・・耐えられない感じ?でもそれでよくここまで生きて来ましたね?きっと父親のお陰。優しくて忍耐と包容力があった。母よりも母らしくて。どういうことですか?母親は子育てするときに概念に縛られてしまうけど父親の立場って結構、自由なのよね。フリーダム!!じゃあお願いね。言っとくけど 僕は便利屋じゃあ ないんだよ?☆なんでもかんでも父にお願いした。そして迷惑そうな顔をしてながらも父はそのつど対応してくれた☆

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 オートフラットの審査に合格してこれからはパーカッションのことだけを念頭に歩んでいこう。ブルーのことをあたしはラグジュアリーって話してたけど勘違いだった。パーカッションブルーだったのだ。説明を受けながら商品リストを追ううちに判明ではてな西嶌もhnでホンダ西嶌もhnでここが符合になる。スムーズに返済する為に頭金を入れることにした。ボーナス払いも若干入れた。最長七年コースにした。七十歳過ぎる頃には免許は返納しているかも?健康ならずっと運転出来るけど、認知症や記憶障害がもっと進む可能性もある。先週の17日、なんと予約していたのに、すっかり忘れてソフトバンクにも行かずじまい。翌翌日になって気が付く。ああ、予約してたんだった・・・って。こういう具合だからブログもどうなるか、計画を立てられない。しかし脇田大佐生誕122周年のカウントダウン!!って思うともはや間違えない。はっきりした日時が分かっているからだ。毎日の生活は、睡眠を一杯摂っているがゆえにその夢を活用出来ないか?って興味深い処で進捗している。夢をプロデュースできればそれ以上の御の字はない。あたしたちはずっと夢を睡眠の付属物みたいに捉えて来たが、そうではない。睡眠中の夢は現実のその先にある。あたし達の出来なかったことにまで夢が言及できる確約の世代は遠くはない。

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 僕はたまたまはてなブログを色々検索していくうちに素晴らしいブログと出会う。そこには継続についてしたためてあって僕なりに理解が出来て嬉しく思う。しかしただ、嬉しいだけにとどまらず、シグナルも同時に貰う。継続はただ単に継続だけでいいのか?っていうハテナを僕に冠って来た。どこかに意図や戦略があってこその継続ではないの?って。おっしゃる通りで僕も鑑み立ち止まる。だいたい、継続しました!!っていうとき、今日成すべきことを一応こなしました!!っていう種類が多い。むしろノートだと思う。昨夜、ある解説者が持参してきたのは1997年のノートだった。現役の選手だったときのものだろう。僕はその大学ノートを見て感動を貰う。スポーツの分野だって書き込みが大事なんだな?って。日記とはまた一味違う趣も感じる。なぜだろう。二十三年前とは思えない。保存状況もいい。僕は一挙に到達した。こういう野球選手の緻密さの向こうに、僕らの仕事の未来もあるのでは?って。その日にこうでした!!って気が付くことは、よほどのことがない限り起こらない。人間には杓子定規という日常が常に付帯しているからだ。しかしそのノートは鮮烈だった。自分で言うのもおかしい位覚せい出来た。僕らの結果は随分後に現れる。今・・・現れるのなら逆におかしいだろうって。

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 テレビが壊れてしまうということは、家族にとって惨劇に違いない。あいつが暫くの間、孫にすまほを賞与する案は、僕も賛成だ。もっともな策だと思う。それはいけないと思う親も世間にはいるかもしれない。しかし僕は黄泉の国へ行って考え方は柔和になっている。なぜだろう。ここでは自由があってないのだ。楽しくゆっくり過ごせるのは嬉しいのだが全く最近、刺激がない。以前ここへ来たすぐの頃、絶えずオオカミが近くにいることが怖かったのだが、通過出来ないバリアがあることに気が付く。オオカミは見えはするが、僕とのバリアが存在で、それが判明した後は怖いことはなかった。それが無くなって・・・僕には一日、240時間が持たされるくらい、退屈さを禁じえない。何しろやることがない。事実上「無」なのだ。よく、天国って空の上にあって、そこから家族みんなを見守ってくれているのよ?って生前は聞かされた。しかし、ここも自己責任の世界だ。何かを助けてあげられるか?っていうと全くもって僕らは無力だ。ただ、観ることだけは可能。それがあれば僕が安心なことは言える。仕事をすれば幾分落ち付くのだろうが、まだ、あいつはアルバイトもやりたくはなさそうだ。それを僕は看過する。行きたくなれば行けばいい。強制はしない。