デニム・ブルーママン18の16

 

容子は新聞配達を3月までで切りよくやめてその3月すでに春休みのような状態だったことで、レストランバイトにも出掛けていたのです。この飲食業での研修が18歳の容子にもたらした影響が大きくて喫茶やレストランに大きな期待とユメを預けていたこと・・・あたしは要素のひとつと見ていました。どういう人物と最初に知り合うか・・・確かに18歳にしては容子が知り合った人物は偉大だった・・・とふたりを思うと、ここまで66歳まで来ても飲食にこだわる姿にもそこが投影されていて、ほろ苦い。嬉しいほろ苦さです。ひとりは東長崎中学校の前で喫茶バンビを経営されていた河野氏、彼はリーダーズ・ダイジェストも取り扱う多彩な人物で、もうひとりは今の庄屋東長崎の前身でレストランOKを経営されていた小泉氏。どちらも切れ者でした。あの頃の喫茶店やレストランは目一杯タバコをテーブルで吸えて、しかもその灰皿をウェイトレスが片付けていたのですから今とは様相が違います。しかもまだ、すまほがない時代。店内には固定もあったでしょう。連絡を獲るのも受けるのも、店の電話を借りることで用を足していたのです。スピードはもしかしたら、今よりも逆にあったかもしれません。社長がどこにいるか・・・社員は全員知っていたことでも分かる。河野氏は短い間でしたが、小泉氏は長崎の経営者としてそれから長く経済に君臨していくのです。奥様が社交ダンスをされていたことで身のこなしがスピーディで優雅。そこを真っ先に学んだ容子だったのです。(24379)