アクアマリン・マン《真春と真秋の間編》〔35〕俺が考えているように世間は甘くはなくそうかといって、いつも世間が正しい訳ではなくそれがあるからこそ、言論が生きると思う。僕はこれだけSNSが盛んになって選挙戦にもそれらを使って候補者が切磋琢磨出来る日本を誇らしく思う。くやしいが俺の負けで、世の中を二分するこれらの様相、実際の世界と拡散の世界を両方手玉に獲る奴は出て来るのではないか?と怖い者見たさになっている。なぜ、そう思うのだろう。選挙戦でメディアを利用してSNSを駆使しつつ全然健闘もへったくれも無かった諸々を見ながら、メディアを含めた拡散の世界以外にもうひとつ、大きな興奮の婁壷をこの国が有している様相が色濃くなった。ゆえに嬉しい姫意にもなってくる。つまり、これまで確心としてはどこかに感じつつも見逃して来た、両方を同時に手玉にするやり方があって、それに早くから気が付いていた識者たちの善戦を俺は目の当たりに出来る予測でいる。涼しい顔で現実の世界も拡散の世界も同時にこなす彼らは、正体を中々人目にさらさない。それも作戦で、人目にさらさないことで鮮度を維持している可能性が、こんな俺にも分かってきた。それならどうすれば?自分自身がSNSを身に付けるよりも先にやらなきゃあならないことが存在する。アクセスである。