イエローダイヤ・マン《標榜編》〔263〕何かの生命維持装置といわれることは誰にもあって、何々の生命維持装置という言い方がとても方向性に満ち溢れていて俺的にはどうなんだろ?っていう思いを分析する。恋に陥ったとき、そうだった。俺は彼女の生命維持装置になっている自分に気が付く。嬉しくて感動でその気持ちが彼女の依存心から来ていることはすぐわかった。しかし俺は錯覚ではないか?と問い質す。本当の恋と遊びの恋の違いを正そうとしていたのではなく、俺は先に彼女の錯覚を見てしまった。このことが絶望に通じていることが大きかった。お互いが見初め恋を大事に育てていく過程には、家庭像に通じていく何かが宿る。それを彼女が認めていたことが驚愕で、しかし俺にはそれに賛同する勇気がなかった。彼女の錯覚がある時、未来を擁する現実にも対応して行く場面を迎える。俺との将来をマジで考え始めていたのだ。そ、そこまでの責任を俺は担えなかった。なぜなら発端が錯覚から始まっていたからだ。理数系の人間の恋が成就しにくいのがこの辺りかもしれず結婚相談所に出すレポートを俺は書き終える。味も素っ気もない文章だが俺は正直者になりきった。あくまでも理想主義者でありたかった。