ルビー・ウーマン《ロイヤル・ボックス編》〔193〕父は自分の歩いてきた人生を説きながらこうあるべくだよ?と若者に接するのに対して、母は常に静観を崩しません。人生はこうですよ!とか、こうあるべきでは?との指南がないのです。その母の心の在り処をキャロルなりに類推すると人生は思い通りには決していかないからその時その時の、自分の機転で乗り超えていくしかない・・・と自分なりに解釈していたものが総崩れになることがあって、動物と対峙したときの母の気持ちの矢面に立ったときの両者の比較。犬派ではなく母は完全に猫派だったことです。小学校四年くらいのとき、父が犬を貰ってきてそのときは育てることが難儀に見えた母は、その後、キャロルが短大時代の友人からシャム猫を譲り受けて家で飼うようになったとき・・・どういう対応でいたか?今思い出してもケラケラ笑い出しそうで懐かしむのです。母はシャム猫がまるで、娘の分身ではないか?と見間違うほど可愛がるのです。すぐにタンスの頂上によじ登って、逃げてしまうシャム猫がやがては母にすっかり懐いていく姿に驚きと共鳴を覚えるのです。彼女には膨大な時間があって小学校教諭の十三年を省けばほぼずっと専業主婦だった・・・そこを思うとなるほどなと。そしていろいろな困難が巡ってきてもそれに耐えうるものを猫を貰ったときから会得していたのでは?人間と動物が許しあう親愛の介在です。