サファイア・マン《緻密な男編》〔31〕今まで映画から離れられずにいたんです。アザーズです。ニコール・キッドマンさんの迫真の演技に参ると同時に考えさせられました。生者と死者の線引きについてです。死んでいるのに生きていたり・・・死者をフォウトウにして保存したりこの映画はいわゆるゴシック性は高いといえど、きちんと精神的な宗教の位置にも触れていて果敢であると・・・。これだけあの世の人々にリップサービスをした映画はなかったのでは?とおどろおどろしいものに加味された監督の問い掛けに息を呑んだのです。亡くなった人々の切なる思いはどこかにあるはずで、ピアノであったりランプであったり写真であったり様々です。キャロルは霊を認めません。まだ証明が出来ない。現実のみがニンゲンを左右するとの見解。しかし亡くなった者達の精神的化合物はどこかに息を潜めているのでは?と気配は感じます。動物とは違い人間は特別の霊力を持っています。それを否定することは神を否定することと同位で恐るべきことだと・・・。キャロルは現実に霊の導きを感じることが多々あります。物を書くニンゲン、それも女性であったことが作用します。ヒステリックに物言いしても何も始まりません。子供を殺すなんてあってはならないことだけれど、この映画の主人公は神の存在をしっかり取得していた。だから、くじけないで!母親らしく・・・という呼び掛けを聞くことが出来たのでしょう。亡くなった人々の思いはごく自然にありとあらゆる空気に溶け込み、尋常にもこの世の中のあちこちで意見を搬送しています。亡くなっても決して無言ではないのです。だ・か・ら死人に口無しは誤った諺なのです。