サファイア・マン《緻密な男編》〔143〕もしも福岡市南区大橋一丁目での不遇な時代がなければそう深くは考えず、人生を謳歌出来たかもしれずほろ苦いのですが、何かこう得体の知れない大きな枠組みを禁じ得ない。それは後年になって飲み込めたことなんですが、これだけの偏見や蔑視があったからこそ、この問題を掲げるにふさわしい地位を取得したという因果関係です。夫婦であるパートナーでさえ、相手にこれだけのプレッシャーや屈辱を与えても別段ニッポンの社会では叩かれないという約束事で、今、二千年代という二十一世紀を迎えてようやく人権問題は進捗をみる段階に達しましたが、1988年というこの年に関しては、ニッポンはいかに差別を愛する民族系譜の中に乱立していたか?という社会背景を見逃してはモノを語る価値さえないでしょう。家庭という立ち位置がいかに低い水域で論じられていたかそれは例を出さずともこの一件でも明瞭になります。私はこの低い評価をいかに乗り越えたか?というとやはり伯母の先見の明〔姪〕があったということが大きい。まず戸籍を動かし上の二人を養子としてきちん割り出すことをアドバイスされるのです。しかし1988年、この頃の伯母はまだ福岡に来ることさえ出来ません。病床の伯父の看護に日々奮闘していたからです。