今までは著作権のことなど割かし鈍く捉えていたがこれからはシビアに捉えていないといけない。キャロルも本腰を入れて音楽の分野にアシガカリを付けていくし、音楽では収入への道を考えているからだ。むやみやたらに家でもピアノは弾かない。横は公営駐車場で音は筒抜け。ヘッドホンも購入してシンセサイザーで作曲。なぜ収入ないと困るというとやはりやぶし・・・可哀想に思うのだ。年金はあってもどんどん乳飲み子にいくし、それでも足りない。キャロルが働いても、一度使用したものを二度と使えないというケッペキ症ゆえに一日三千円以上と最低限出費は嵩むのだ。キャロルはこういった奇病を生かすためにもまだ、使える乳児の衣類、タオルの再利用方法を熟考、見込みを付ける。ニッポンでは必要とされなくともオクルミにバスタオルが助かる国、戦闘の地で子育てをする親の為にどんなに役立つだろうか・・・。確かにキャロルに神は未曾有の才能を与えたが、こういった金銭の負担をも頑強に強いる。このことから観ても人類は平等だという観点が付く。どういういいことがあっても悪いことも一緒だということなのだ。語外論争、これは一長一短だ。イッチョウイッタンは誰にも負荷ある人類への認定である。