物書きでなくとも、辞世の一首、一句、残すことは、大事かなって、短冊とか、そして、色紙、筆ペン。まず、何を言いたいのか?そこなんだ。キャロの場合は、無差別な、対応で、新聞に抹殺を受けた人間だから、ここをはずせば、嘘になるから、言いたいってのはあった。こういう辞世の時ってのは、正直が一番、例えば、いつも、札束で、人の頭や顔を引っ叩いて来た人間・・・。これはリアル、難儀やね。まず、懺悔からだよね。しかし、もう55歳過ぎるっていうと、懺悔なんて、中々出来ない。金を出して芸術家に頼むっていう、それも空しいよね。ひとりの、父として、夫として、そして、或いは祖父として・・・でもいい。少年野球のコーチとして、長く努めた、その72歳のじいさんなんか、キャロに会うたびに、少年達の話ばっかり。この間、どこどこで、会ったとか、でかくなってたとかね~人間のこころって、感動は忘れないように、そういう仕組みになっているんだ。ハラハラさせた、胸を打たれた、そういう瞬間が一首や一句の心臓部になる。そうやって、ずっと追ううちにも、構成をみるんだ。蛍光箇所ですよ~ひとりで、何人分もの享楽や快楽を消費した人ほど、案外希薄である。人生の濃さとは、ひたむきさに比例するものである。