イエローダイヤ・マン《標榜編》〔94〕例えばみんなが自分のイメージを持っていてそれが必ずしも外から評価されたり見積もられたりする自分とは離反する部位を持っていてそれが発見に繋がりうる。俺も随分とこう言われて来た。スマートで瞳がカッコイイ!!と。しかし駄目な自分の内面を知っているから当然否定になる。みんなが見ている俺は俺の中で崩壊するしかなくて、それはニッポンが置かれた現状と巧みに似る。そういったイメージを誰が作ったか?というと歴史なのだ。数日前、蔵之介がナビゲーターになってドイツの大量虐殺所を尋ねた。ある科学者の足跡を辿る為で、そういったシビアな役も彼には的確で俺は感動した。戦争の悪化でもうここを去ろうというときに彼は集合場所に現われずみんなと行動をしなかった。そのことで、彼は戦後間も無くドイツ近郊で亡くなってしまいみずからの医学の功績を表わす事が出来なかったがその町がなんと彼をつまびらかに調べ、もう一回彼を見直そうという運動をやってくれているのだ。なんという嬉しい町だろう。彼は所長をやらされて、日夜ロシアに雇われ、医師としての任務を果たし遂には果てる。このイキザマから貰えるものの多さに俺は目を閉じる。何も功績を求めない・・・むろんそういう状況下になかったといえばそれまでだ。俺はそこを取材しようとしたメディア人を知りたいと思った。まだこの国に分はあるのだ。