ルビー・ウーマン《ジーニアース編》〔97〕正直、道端ですれ違うより、随分前で、キャロルは電信柱の陰に隠れます。ひと一倍、注意力があったというより、もしもあの天秤棒の均衡が崩れ、あの樽がひっくり返ってしまったときに、どうなるのか?があったからです。そうまでして、ロコちゃんの父親が運ぶ理由は相当なんだなあって、父はそういう動作は取っていなかったからです。肥料になっていることはこころの中でわかってはいましたが、どうしても綺麗に擦れ違うことが出来なかったキャロルは自分の中に混在する危機管理能力はこの一件でスムースにひとつにまとめられたとそう感じたし、おねしょに関しても、ひとつの大きな思想的前進を見ていました。最初のユメはおしっこをしたくても扉が開かなくておもらししてしまっていたものが・・・どんどんユメ自体が進化していった。扉が十にも及び、そのトイレの事情がそれぞれ異なった。扉は開いても詰まっていたり、ドアは開いてもトイレの蓋が開かなかったり・・・。キャロルは自分がおのずと設定をしていたことに気が付く。そして想像力の根源が推理であることに到達する。ユメで話したことが現実化することもその一端になるでしょう。例えば父がキャロルが欲しいというと、すぐさま竹馬を作ってくれて、キャロルはびっくりするのですが、これなら今の教育で充分なされていること、しかし前者こそが想像力を編み出す手品の種あかしに相当するでしょう。幾つもの怖いを想定することで扉は設定されユメに現われ数は増えていく・・・。こうなれば自意識を何が受け持っているのかも解明ですよね。惰性の裏にあるのは当然なんです。