デニム・ブルーママン16の12

 あの頃から完成度の高い楽曲を作っていたのに反して、執筆はまだ、オクテの容子でした。晩稲とふった方がいい。作曲に関しては手慣れたものだったのに比較して、文章になにか得体のしれない苦手意識を頭に固執して持っていたのです。友達に小品を書いて読んでもらったりはしていたようです。その中でも決定的な事項がありました。中2から中3にかけてある女生徒と交換日記を続行していたのです。なぜ、そのようなことに及ぶ?って私は傍からそっと見ていたのです。毎日相手の教室まで届け、翌日には相手が自分の教室に持ってくる。違うクラスになっても中3になってもそれは続行で、私は日常のことを細かく書くことで、その細部が浮き彫りになって論点も視えやすくなるのかなっていう具合に軽く受け止めていたんです。日常のことを執筆することは続きがあるから面白い。確信は、核心はそこでしょう。相手はやはり読む人の心の状態を狙って書いてくる。面白く書こうとはしないし、むしろ、正直に書くことに徹するだろうって。容子は一般的に、自分は書くことでは大成はないだろうと十代の頃には思っていたようです。音楽的に自然に開花をするだろう・・・と。そこでの確信が顕著だったゆえに、そこまで、記述方面では努力もしなかった。それが35歳のときに一大決心をするんですね。今・・・この年代を正しく迎えようか?っていう人々に、大きな先進的な課題を与えることになるのは間違いないところでしょう。一般的に35歳で奮起っていうのは遅いのですが、あの頃の容子は新聞を高く評価をしていたのです。