鬱屈とした女性の歴史に花を添えてあげる・・・そういう女傑の仕事に不可欠なものを私は自分の中で温めていたことは言えるでしょう。なぜ、自分が率先してやらないの?ってみんなが訝るかもしれません。やはり向き向きがあることを教師の時代に会得したと話せばみんなも膝を突き合わせてくるかもしれませんね。毎日様々なことが起こる教室ですがアタマのいい子だけがしのぎを削っているわけではないのです。特に小1を担当することの長かった私は何度もこの子の未来は?をひとりひとり前に据えて想像してきたことは現実にあって、あるとき、大人になって遭遇が叶ったときに、自分の想像したように、相手が成長していたら、私は一応の溜飲をおろすのです。やっぱり期待した通り、エリート街道だった・・・と。しかし全員消息がわかるわけではない。途中転居したり、よその県に就職したりで、音沙汰自体、掴めないことだって、多い。でも自分の身内・・・となれば話は別です。そういうことに陥らず、しかも、弟の子供なら?って、私はまるで、自分の子供のように愛情を容子に注いだことが手に取るようにみんなにも理解が可能でしょう。子供がない人間には希望がある。しかしあの子は褒められることはあまりしないのです。お転婆で、私の母にもしょっちゅう叱られていたのです。足癖を特に母から注意をされて久しかったのです。正座も長い時間は無理・・・。お行儀が悪いと将来がおぼつかないのが女性の歴史には当然あった。私はこのじゃじゃ馬をちゃんと矯正出来る人間の到来を心の片隅のどこかで待っていた・・・と本音が言えます。なぜなら、両親が甘かったからです。何も規制をしない。口では弟も言い聞かせはしますが、全く本人は聞いてない。どういう未来が待ち受ける?ってまともな人間なら誰しも危惧しないではおれなかった生徒が容子だったことは公言出来ます。しかしそういうじゃじゃ馬をちゃんと治めることが出来るかも?と淡い期待を持てたのが容子の再婚の相手になった旦那様だったのです。