デニム・ブルーママン11の11

 家の中で本来なら、年令が最も近い私が美知に寄り添えれば良かったけど、私はそれが出来ず苦慮するだけ…なんでこう、冷たい?と周囲も思っていたでしょう。私が昭和4年生まれ(1929)で彼女は2歳下。しかし、文人が持つ過度の神経質や気鋭の裏に控える憔悴をある程度は理解出来たので引いたのです。むろん容子も同じだったと思う。医師は不治の病という言い方で終始します。わずかな余命をタヤは察知し、覚悟はしていたのです。病院には入院させず家が良いとタヤは判断します。夫は海の歌山の歌の投稿募集で美知の短歌が選ばれ、本になった…と彼女が亡くなったあと、あちこちの古本屋を回り、ようやく、発見したと声を上ずらせ話します。その日は、持ち合わせがなく諦めて家に帰る。次に店に入った時には、すでに売れたあとだった…と。容子が小学5年の7月に美知は静かに息を引き取ります。亡くなるまでの間、美知から、短歌の話を聞く機会が何回かあったというから、しっかりバトンタッチは出来たものと私は捉えています。