ブラックオニキス・マン88

 今朝は句聖、歌聖について、僕なりの表現で追及してみたい。そもそも聖なる・・・のその大義で気になる。句を詠み人々がとことんコミカルに拘り風刺に専念して町民意識を彷彿とさせて、町民愚を〔チャーミング〕に詠んでいったとして、面白がられ重宝されてそれで良し・・・となるか、なれないか?このどっちかだろう。前者ならその人物はたいした器だと暫定がつく。もしも後なら実は聖なるをどこかで意識し、追及している人ではないか?と察する。母は後者だろう。だからこそ、誰にも、アンタッチャブルにしている。触れさせない。日常会話の交流ならするが、自身の文学的境地にまで踏み込ませてない。タッチをアンにしているからこそアンタッチャブル領域。そこまで慎重に、踏み込ませないには深い魂胆があると思うべく、僕が今朝題材に持ってきた。この人物、将来は句聖くね?しかし本物なのか?臭いも掛かる・・・くさくね?って。いいものが出来たらみんなにその日のうちに、届けることが出来る。この出来るが何を意味するか?出来るはツインだ。すぐ出来る。すぐ届けることすら可能。インターネットの恩恵を百パーセント駆使している今だろう。僕が思うに、最初から孤高戦略で来た。この仕組みにはどうやらすっかり母の思いが、願いが重ねられている。戦略の要はニッポンチャチャチャ。しかも文学路線、音楽路線その両輪だろう。