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 どんな新宝石が現れても僕は生き残ることが可能であるように祈る。もちろん祈りだけでは済まない部位。実力と呼ばれる部位。なかんずく僕にはそれがあるようだ。ひとり一の舞いだがそれでも充分納得出来る。二の舞いではないからだ。諸外国の人々がぶつかるのは、恐らくここだろうな?ってアタリを付ける。二の舞いっていうといい意味では使わない。一の舞いが、だから順当な使い方になる。僕は最近存在を確固と出来るような現物を発見した。言葉で固定したのだ。存在とぞんざいの関係。このふたつの密着を哀しいかな、三十五歳になっても知らなかった。恥ずかしい僕ではあったが過去のゾーンに出来たことで自信もみなぎる。そんざいはその人物なら人物のステイタスを指しているのだが、これに濁点を付ければ、ぞんざいになる。みんなもここは分かるだろう。存在に濁点四個も付けてぞんざい。相当軽く、みくびったという経緯になる。僕はそもそも、ぞんざいすらよく飲み込めていなかった。存在が変化したものなど普通なら気が付かない。しかしある日、ぞんざいに扱われるっていう語彙に反応する。ピリっとした唐辛子的反応が全身を駆け巡る。正にその種を飲み込んだ感触。存在に四つも濁点付ければぞんざい。このような処置にされたら必ず抗議していい。相手に反省文を書かせていいのは全くその通り!!っていうことになる。やわらかくいうと謝罪の手紙だろう。