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 僕の同窓生たちも、結婚組が未婚組を僅差で追い越しているその手応え感はあって、毎日をアクティブに相互依存形で生きるひとつのメソッドとして枠組みに取り入れられていく感触はある。僕もそうありたい処だが、まだ、迷いはあって、最愛の人が、運命の人がまだ現れてなくて、どこかにいるように思えてならない。若い時からそうだった。僕は符合論の推進者である自分をようやく許せるようになった。いつもそういった神がかりなものに対峙する時には、自分自身に神的な何かがないとおかしいだろ?との呪縛にさいなまされて来たものだが、符合というものが起こる時、それはすこぶる神との関与は取り沙汰され今日あることを僕は慎重に考えている。これは考えることを止めて慎重になるの方ではなく丁寧に立脚出来る展開を作り上げるという後者の方である。世のニュースは今中高年の引きこもりのことで手一杯で実はなぜ、そうなったか?真実の論点に欠けている。なぜ、加害者がそうなっていったのか?そこまで時代を巻き戻して行かないと本当の答えを見つけることは出来ない。風潮にはしかし必ず深い視点が隠れている。なぜ、元官僚の親が子供を手に掛けたのか?僕は息子に渡していた毎月の金銭の総額を知りたい気持ちで一杯だ。世の中の限度額というものを超えて渡していたとすれば、それはいずれ殺意にすり替わっていくのは必然に思えるからだ。