サファイア・マンs211 短歌に暗示を込める、封印するも包括していくことが文学的に高い評価を獲れるということで、印象と暗示は私のダブル十八番に認定されるのです。例えば冷蔵庫の中で燻ってはいないけれど、いつか忘れ去られてしまった食材があったとします。出番を逸してそこにあるのです。調理名が変わったことによる?それとも単なる無駄買い?そこで生じたハプニングですが、野菜室でなぜか陣取っているのです。使ってくれよ~~と私に問い掛けながら懇願しているようにも聞こえます。私はそういう諸々に耳を貸すようにしたのです。子供達が寝静まった深夜に一人起き上がって、野菜室を開けたら突然居なくなっているということはない。それゆえに安心も生まれて来ます。家の中の食に関しては自分が統治していて、恐らく子育ても同位でしょう。そこを活路とすればまだ、短歌を詠み始めてはいるものの、どこか確信が掴めていない私のはんぱ者風情でも、まだ大丈夫?って。縋るように自分の文学力を探しに歩きます。頭の中にそれが埋没しているのでは?との錯綜でした。そうだ!!このジレンマは決していい作用がないのでは?と逆に捉え、思い直すのです。私は毎日投稿しながらもまだ紙面で自分の名前を見つけられずに焦っていた。それが初掲載されるのは二月になってから叶うのです。ハガキを投函して二か月を経由しての結果だったのです。