イエローダイヤ・マンy621 いざという時に何の役にも立たないと思いがちだが、同じ屋根の下にいる境遇は似て非なる、特別な趣がある関係両者だと心も穏やかになる。解決には程遠い感じはしてもそれを看過しているお互いでも、心のどこかで繋がっている。このシステムこそが疎通だろう。意志の疎通がどれくらいの比重を占めていたか、自分が難局に対峙した時にそのグレードが判明する。難局のグレードのようでそれは自分自身の居る座標だということがわかる。心の強さや気鋭も揺らぎ、解決におぼつかないなどと推論されてもこの絆は変わらない。そこで嬉しくなる気持ちも同時に抑えられなくなる。人の中にある善がそうさせると僕は疑わない。善がなくなれば無意識の内にも、閉鎖した感情や頑なな思いに自分自身が蝕まれていく。僕達はその試練の時に、本当に自分は善なのか?迷ったり、区切りや了承を得たいとの切望を持ちうる。時代の確定キーを持たないまま、素人感覚で歩くかざるをえないのが現代若者だろう。何かにぶつかった時に書物がどれだけ資力になるか、そこは無限だ。読書の秋、食欲の秋と昔から双頭の鷲のように言い尽された両者だが再考の余地はある。自分自身が善であることですべて解決出来る訳ではないものの、書物も食物も大手を振って僕の居る方を目指している。