サファイア・マン《かけがいのない男編》〔167〕父の文章が勢いがあるのにやはり病のせいでしょう、美しくて均整の取れた元来の筆跡とは思えない程乱舞しているのです。父は記している。幼い子供は迷いを知らず、苦しみも知らず、本当の意味で深刻な悩みが始ってはいない。これは実は人の心というよりも仏の心と言える時期なのだと説いています。仏のような心をどうぞ、呼び覚ましてくれないか?!と達治は詩人として訴えていると解説するのですが皆さんはどう解釈しますか?悟りもないただただ、無心ゆえに、遥かなるものへの訴えが、呼び掛ける祈りのようにも聞こえると...。そこまでの純粋無垢な心を私達は取り戻す必要はある?矛盾に思うし人の心は日々動いているのです。成長があるからこそ、分別も芽生え他者との境界もわかっていく、しかしあえて達治ははここに着目し、しかも母親を呼び出しているのです。達治の母親への愛情は並み大抵のものではなく、しかも自身の結実は母無くしては起こらないとまで、予知している。どんなにか、苦しい時には慈悲が嬉しいでしょう。しかし大人になるということは慈悲にも分別を余議なくするという現実問題が控えるのです。